Xジェンダーという記号
これまでさんざん、Xジェンダーという言葉を多用してきた。
ここで一度お断りしておきたいのは、Xジェンダーはもちろんのこと、FTMやMTF、そしてセクシャリティをあらわす言葉は単なる記号に過ぎないということ。
たしかに、カテゴリに当てはめられる事で安心感を持つことはあるし、じぶんが何者であるかを常に把握しておきたい心理はわたしの中にも存在する。
けれど、それは同時にじぶんを檻の中に縛りつけるようなもので、時に窮屈になり、時に自らの首を締めることにもなる。
なぜなら、ジェンダーやセクシャリティというものはグラデーションであり、人によっては揺らぎを持つものだから。
じぶんはこういう人間だ、とその時は思っていても、後々何かのキッカケで思い直す人は多少なりともいる。
そのことに戸惑い、動揺してしまうかも知れない。
こうだと思っていたのに違った。どうしよう。じぶんは何なんだ?
でも落ち着いて考えれば、じぶんが何者であるかを確実に知ることは、誰にも出来ないのだとわかるはず。絶対はない。というか、絶対なんて云い切れないのだと、わたしは思う。
だからもし、じぶんはMTF、FTMだと思っていたのに、どうもXジェンダーであるっぽいと思いなおしても、それが間違いだとは云えないし誰にもとがめられることでもない。
セクシャリティについても、レズビアンだと思っていたがバイセクシャルっぽい、Aセクシャルだと思っていたが違うっぽい(念のため、これはAセクを否定する意味ではない)と思いなおすことは可能性としてはある。
絶対はない、と云いながら、動かせないものもある。矛盾して聞こえるだろうけれど、それがじぶんの核であり土台だから仕方ない。
それを動かすことは、根本を壊すことで、一から再構築するということ。
つまり、それまでのじぶんを殺すこと。
生きたままそれを行うのは、想像するのも難しいくらい過酷で暴力的に思う。最悪心のバランスを崩してしまう。
そんな風にじぶんを追い詰める必要なんてあるのだろうか?
そこまでして手に入れるものとは、己にとってどんなに重要な意味を持つのだろう?
少々小難しく書いてしまったかもしれない。
要はカテゴリに縛られて、じぶんの本質を見失うのは本末転倒だと云いたい。
カテゴリはカテゴリであって、あくまで便宜上付けたタイトルでしかない。
わたしはXジェンダーでパンロマンティックデミセクシャルである。
こう記すと、なんとなくじぶんがどういった人間なのか、解った気になれる。
でもそれは、わたしが絶対にXジェンダーでパンロマンティックデミセクシャルでなければいけない、という意味ではない。
そこだけは、間違ってはいけない。
思えば、このblogを始めてから、Xジェンダーの方が割と多いなぁと、感じている今日この頃。
たまたまかもしれないけれど、わたしの全員Xジェンダー説(?)はあながち的外れでもないかもしれない。
Xとは不確定という意味。人間とは不確定で不安定であるもの。本当のじぶんを知りたいと思ったことがある人は、きっと世界にたくさんいる。
そんな気がする。