令和元年、なんやかや忙しない年である。そしてわたしは…
2019年、今年ももう8月の下旬になろうとしている。
1年経つのは本当に早い、いや速い!
わたしが札幌に越してきてからだと4年目になるのだ。
来年の1月で賃貸物件が更新になる。
そしてその節目で、ある選択を迫られている。
XジェンダーカフェDive‼︎
今年もセクシュアルマイノリティ(セクマイ)のイベントを何度か開催させてもらっている。
やり方を変えながら、未だ試行錯誤を繰り返している状況ではある。
それでも、参加してくれる方々がいるので有り難い。
内容は概ね交流会、好きなタイミングで来て、各々で話したり聴いたりして、好きなタイミングで帰るだけの自由な集まりだ。
そこで、気の合う仲間ができて、じぶんのセクシャリティの事や普段は言葉にできないことを気軽に話せるようになれたら。
そんな願いを込めて開催中である。
6月に企画したXジェンダーカフェDive!!も、札幌市内のBARを借りての開催が叶った。
性別を、身体的特徴だけで完全解釈することのできない。またはされたくないXジェンダーが多数集まった。
じぶんもその中の一人として会話に加わらせてもらって、セクシャリティについて浅からず深からず盛り上がった。
普段の生活で感じているモヤモヤ、世間では少しずつ認知されつつはあるけれど、まだまだ可視化されにくいセクマイは多い。
家族にも友達にも、どんなに親しい相手でも、親しいからこそ、カミングアウトできない辛さがじぶんたちにはある。
世界的にはもはや、マイノリティとはいえないほど存在しているのに、日本という島国の一部の民は、いまも性的少数者(セクマイ)を異物として認識する傾向にある。
とはいえ世界は常に動き続けている。
遅かれ早かれ、日本も事実を認めざるを得ないだろうけれど。
せめてそれまで、差別や無知の圧力に屈して、生きることを諦めたりしないでもらえたら、と願うばかりだ。
わたしたちはひとりではない。
4周年の節目
冒頭に記したある選択、というのは。
家庭の事情で、札幌を離れねばならなくなるかもしれないという話である。
そのことについて、今年はずっと頭を悩ませていた。
本音を云えば、札幌から離れることにデメリット以外なにもなく、むしろそうした結果は悲惨な状況しか想像できない。
それでも、じぶんがそうしなければ、じぶんの全てを引き換えにしてでも為さなければならない事情なんて、何があると思うだろう。
実はこれ、セクマイあるあるではないか、いや、シングルあるあるなのではないだろうか。
実家の両親は、二人とも80を越えており、おかげさまでどちらもピンピンしている。
けれど最近、母親が持病のため週3以上の通院を余儀なくされるようになった。
とはいえ、多少生活の仕方は怪しくとも、今のところ大きな問題はなく暮らしている。
しかしこの先、一生通院しながら生活していかなければならない。
昔から父親は母親に負んぶに抱っこで、母親の面倒など見る気もやる気もないようだ。
母親の負担は(今までもだが)少しずつ確実に重くなっていく。
そこで仮にも子であるわたしが、その負担をなんとかしなければならないことに。
方法はいくつかある。
一、残り少ないじぶんの一生を両親に捧げて家族と果てる。
二、国の援助を最大限に生かして他力を借り自立してもらう。
三、逃げる
酷い書きようだと思われるかもしれない。
けれど現実はもっと酷い。
一部の政治家が、セクマイも日本の一国民であると認めたがらないように。
等しく税金を納め選挙権を行使しているセクマイに、あなたたちに税金を使う必要はないと云うように。
国民は、国に金を上げるための国民を生産する国畜であると、暗に示すように。
セクマイでシングルのわたしは、国から稼ぎだけでなく、幸せになる権利までも搾取されているのではないのだろうかと思っている。
脳の発達がよくないじぶんには、どうしたら全てをいい結果として導くことができるのか、正直まったくわからない。
セクマイであることは、自身ではどうにもできないことで、好きな人(同性)と結婚できないのも自身ではどうにもできないことで、お金持ちではないこともじぶんにはどうにもできないことなのに、それを自己責任と云い捨てられる。
そんな酷い話がフィクションだと思われているとしたら、本当に酷い話だ。
叶わぬ夢
わたしには夢がある。
叶うかどうかは別として(そもそも夢というのは努力して実現させるものだが)、子供から大人までのセクマイが、息の詰まるような時間や場所や人から解放され、差別に怯える必要もなくホッとできるカフェを開くこと。
それを云うと、ある人は「いいね」といい、ある人は「タダじゃできない」というが、実際起業力は無いし、お金も無いし、体力もない。
とりあえずあるのは、そんな場所を作りたいという夢力のみ。
もともとのんびり屋で実行力も自信のカケラもないじぶんが、何かを成すことに積極的になれたことなんて無いに等しい。
そう考えると、4年前突如として札幌に移住を決めたのも、セクマイのイベントをやり始めたのも、様々なセクマイ活動に参加できたのも、奇跡のような光景だ。
まるでじぶんじゃないみたいだ。
いや、これが本来のじぶんだったのか。
40年前、じぶんが誰にも必要とされない「いらない」人間なのだと自覚したその時から、わたしはわたしではなくなっていたのかもしれない。
だから、セクマイとして自信を持って生活するようになってからのわたしは、心から「生きている」と感じているし、48年の人生で今が間違いなく一番幸せだ。
そんなわたしがどんな道を選ぶのか。
今の「生きている」生活を諦めて、溜め息の出るような思い出しか無い元の世界へ当然のように引き戻されるのか。
じぶんの幸せを維持し、かつ両親の生きやすい状況を考慮し(これが色々難問)互いに納得できる生活を確保するのか。
何もかも嫌になりどこか遠くへ逃げるのか。
わたしにはもうひとつ夢がある。
人生の最後に、笑いながら「嗚呼、面白かった」と云って死ぬことだ。
40年以上生きてきて、心から幸せを感じたのがたった数年であっても、終わり良ければすべて良しじゃないかと、それが報われると云うことではないかと、そう思っている。
次回XジェンダーカフェDive!!
日時 8月25日(日)12時〜16時
場所 イベントバー エデン札幌
参加費 300円(1ドリンク付)
ノーアルコール、室内禁煙🚭
男でもない。女でもない。わたしという性別!
4月某日、YouTuberかずえちゃんの『僕らのカミングアウト』動画を撮影するため、朝から大通り公園へと足を運んだ。
天気は夕方にかけて曇りの予報だった。
大通りに着くと、眩しい陽射しの中で、いつもは動画で聴く優しい声と笑顔が、わたしを迎えてくれた。
今回撮影をしてもらえる事になり、じぶんなりにいろんな事を考えていたら、伝えたい事がたくさん浮かんで、いったい何から話せばいいのだろうと思うくらいだった。
なのにいざ言葉にしようとすると、うまく話す事ができない。頭を抱えた。
わたしが伝えたかったこと。
わかってほしかったこと。
まだ、完成した動画を見ていない今、きっと言葉の足りなかったわたしの話を一生懸命編集してくださったであろうかずえちゃんに、謝罪と、そして心からの感謝を。
男でもない。女でもない。私という性別!
https://youtu.be/SiYE8fSvbiU
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わたしは今でもじぶんをXジェンダーだと思っているしそう感じています。
そうしてじぶんを認められるようになれたのも、やはり札幌という広い街に出て、いろんな人に出逢ったからです。
昔からわたしは、やっぱりどこか変わった子供でした。
考え方や感じ方、女性として生まれ育てられたけれど、その整然と飾られた枠に、居心地の悪さと少しの劣等感を感じていました。
わたしらしくいる事が、社会で求められる女性のそれとかけ離れ過ぎていて、その事が少なからずアイデンティティを傷つけてくるのです。
おそらく、今の社会にそういった生きづらさを抱えている人は、性別に関わらず多数存在すると思います。
この社会は、もう今を生きる若者にとってはサイズの合わない服と同じです。
長い間、そのサイズの合わない服を着けなければ、人としても認められないような風潮の中で、周りからじぶんを異質であると認識させられ、無意識にもじぶんを肯定する事ができず、生きる気力も薄れてしまいました。
でも、今のわたしはその頃の萎縮した見識が間違っていることを知っています。
わたしという人間が女性として認められなくても、自らシス女性として生きられなくても、わたしはわたしであり、わたしらしくありのままで生きることは、当然の権利であること。
どんな個人の幸せも、国に保証だってされていること。
どんな服を着たって、どんな言葉を使ったって、どんな人を愛したって、愛さなくったって、それはその人自身の存在を、幸せを否定する要因であってはならないと。
だから、わたしは伝えたかったんです。
あなたはひとりじゃない。
互いを理解するのは容易ではなくても、寄り添ってくれる人が必ずいます。
あきらめないで、じぶんの殻を破って、自分の居場所を探して欲しい。
これだけのことを上手く言葉にできなくて、本当に心残りでした。
でもわたしは、かずえちゃんに大きなバトンを渡されたような気がしています。
そしてその事にとても感謝しているのです。
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撮影の翌日、自室でこの文章を綴りながら、つくづくじぶんが喋ることに向いていないと再認識した。
だからといって、文章も上手に書けているとは云えないけれど。
でも
話すことは嫌いではない。
むしろ好きな方だ。
ただ、考えをきちんと順序立てて、わかりやすく言葉にするのが苦手なのだ。
他人に言葉で何かを伝えることは、こんなにも大変なんだということを、今回の撮影で改めて実感させてもらった。
かずえちゃんは本当にすごい。
MARRIAGE FOR ALL JAPAN〜結婚の自由をすべての人に
2019年2月14日に全国一斉提訴された裁判
札幌での同性婚訴訟が、先月4月15日に第1回口頭弁論を迎えた。
同性との結婚…
考えたことがないわけではなかったけど、実際可能となるのはまだまだ先のことかと思っていた。
異性婚は当然のように存在したけれど、結婚について深く考えたこともなかったし、異性と結婚したいと思った記憶もない。
正直
結婚に夢を抱くほど、そこに幸せを見いだす理由がじぶんにはなかった。
でもそれが、はじめてわたしの中に生まれた時、じぶんが何であるのかわかった気がした。
生まれてはじめて札幌高等裁判所を訪れた。
入り口でセキュリティチェックを受ける。
財布とか鍵とかなんかいろいろ、見せるだけかと思ったら金属探知機やX線?とかもあって、そこでやっと、そこがどういう場所なのかということを実感した。
緊張感をまといつつ、傍聴のための整理券をもらいに別室へ案内される。
入場は最高57人までで、それ以上は抽選になると聞いた。
わりと先に着いたけど、あとからあとから人が増えていくのを見て、これは抽選になるか?と思っていた。
傍聴人は全員で53人にのぼった。
抽選にならなくてちょっとホッとした。
法廷は思った以上に広く見えた。
結婚て何のためにするんだろう?
わたしにはあまり、結婚についてのメリットが思いつかなかった。
漠然と、好きな者同士が家族として暮らしている。
そんな情景が浮かんで、ずっと一緒に老いるまで生きていく姿は想像できた。
でも、わたしにはそれが、現実味を伴わない。
じぶんが誰かと結婚し、家庭に入り、子供を授かり、パートナーと子供と平凡で忙しない毎日を過ごす。
現在一般的なロールモデル、それをじぶんに当てはめることができなかった。
口頭弁論が始まった。
原告の意見陳述に、法廷内は引き込まれるように静まり返った。
ゲイカップルの、互いを思いやる深い絆。
レズビアンカップルの、何気ない日常の中に潜む不安。
これが、世のヘテロカップルとどう違うのか、どこが結婚という制度の恩恵を受けられない理由になるのか?
この時、わたしはやっと、何のために結婚という選択肢が必要なのかを理解した。
この社会は、なにかと証明しなければ進まない事もある。
家族であること。
異性であっても、同性であっても、それは簡単なようで難しい。
けれど、結婚という制度があるおかげで、公に家族と認められその恩恵を受けられる。
今の日本では、同性にその権利は与えられていない。
同性との結婚に、偏見を持つ人はいる。
でも
家族になるという事に、性別の何が問題なんだろう?
父親と息子だって同性だ。
母親と娘もそうだ。
兄弟や姉妹だって。
一緒にご飯を食べて、一つ屋根の下に住んで、互いを支えながら生活する。
血の繋がりがなくても、年老いた親子だって家族には違いない。
そこに同性パートナーの家族がいて何が変わるというのか?
わたしは、人生でたった一度だけ、この人と結婚して家族になりたい、と思った事がある。
その時、結婚というものが何なのかを深く考えたりはしなかった。
ただ漠然と、心から愛する人と支え合って暮らせたら、それはとても幸せなことだろうと思った。
その人は、わたしと同じ女性として生まれてきた人だった。
10月11日は世界カミングアウトデー
先日お知らせした【LGBTQ100人のカミングアウト】が、本日10amに無事配信されました。
https://youtu.be/CdJabBKTmMA
この企画をたずさえて、はるばるこの札幌まで来てくださったかずえちゃんに、心から感謝します。
そしてわたし自身、幸運にも企画に参加できたことを、大変嬉しく思っています。
わたしにできるのは、ほんの小さなことでしかありませんが、わたしはひとりではありません。
どうぞこの動画が、誰かの希望のなにかとなりますように。
…追記…
10月16日、さっぽろレインボープライド2018の当日の模様がYouTubeにアップされました!
かずえちゃん【札幌にもいます!LGBTQ】
https://youtu.be/4-lDh8cTlCg
さっぽろレインボープライド2018
10月7日は第1回さっぽろレインボープライドが開催された。
ちょうど台風にぶつかり、中止も危ぶまれたが無事開催となった。
昨年以上の盛り上がりになったようで、嬉しい反面とても残念に思った。
わたしは体調不良のため今年は参加できなかったのだ。
あー……
仕方ない。来年こそは身心ともに健康を取り戻し、仲間と一緒に歩きたい!歩こう!
と、心に誓ったのだった。
その代わり、ということではないけれど、実は今回のレインボープライドめがけ、もう1つの企画をたずさえて来札した方がいて、わたしはその方にお逢いしてきた。
YouTubeで見たことがあるかも知れない。
「LGBTQ100人のカミングアウト!ぼくらはひとりじゃない!」
https://youtu.be/Gk5zdDF2bBk
これを企画し、今回は全国をまわって100人以上の動画を撮ってきた、かずえちゃんだ。
はじめてお逢いしたかずえちゃんはとても気さくで笑顔の素敵な方で、YouTubeで見るそのままの印象だった。
わたしは図々しくもたくさんお話しさせていただいて、レインボープライドには参加できなかったけど、とても有意義な時間を過ごさせてもらえた。
昨年のOUT IN JAPANに続き、今年も大きな企画に参加できたことがなにより嬉しいし、とてもありがたい。
わたしにも出来ることがあれば、ひとりでも何かしたいと思えるのは、こうして頑張っている方たちに励まされたからだ。
わたしの出来ることなんて、たかが知れている。
それでも。
なにもしなければ無いのと同じ。
どんなに小さな波紋でもいい、わたしはこれからも、じぶんという石(意志)を投げ続ける。
世の中がもっと、ずっと優しい世界になるように。
今回わたしが参加させていただいた動画は、10月11日の世界カミングアウトデー配信の予定だそう。
みんなの言葉が、波紋となってあなたに届くように。
セクシュアルマイノリティだとわかってよかったこと
じぶんがセクマイだとわかってよかったことは、セクシャリティを気にせず話せる相手がいると気づいたこと。
前カノの話も、現在好きな女性の話も、普通の会話として話すことができる。
ノンケさんが普通にする恋愛話と同じで、相手の性別なんて関係なくどんな人がタイプだとか、あの女性が可愛いとか、他愛もない会話を楽しめるのは、外ではまだまだ周りを気にしがちだ。
好みのタイプ=セックスみたいに無意識にセットで考える方もいるみたいだけれど、個人的には他人とのセックスにほぼ興味ないし、なんならセックスなしの恋愛は成り立つと思う。
そうでない方はもちろんいるし、とりあえずキスしたいとか触れたいとか思う方もいるかもしれない。
ただ、じぶんにはある程度理性や倫理観があるので、恋人以外とのそういう行為に抵抗がある。
一方的に好きな相手にどうこうしようとするのは、単なる犯罪だという認識だ。
もしそれを越えて行動を起こすなら、当たり前だが相手の了承を得るべきだ。
それには、セクマイもノンケも関係ない。
と、あえていろいろ語ってはみたが、よーく考えたらじぶんにも気安く相手に触れることがあったことに気がついた。
とうやらじぶんには、相手に対する好意の度合いで距離を縮める癖があるようだ。
これをいうと、じゃあ距離が遠い人は好意がないのか?という誤解を生みそうだが、ちょっと違う。
説明するのは難しいのだが、ふと気づくとかなり近い距離にいたり、髪に触れたり、腕を組んだり、が稀に生じる時、じぶんの中で相手が可愛く見えている。てことのようだ。
親愛に近い感じかな?
ちなみに恋人相手だと、距離はなくなる。
つまりべったりしてる。
だってくっついてると癒されるから。
マイナスイオンみたいのが出てるよね。
恋人さんからは。
さて、かなり深刻な話になるけれど、これまで様々なセクマイイベントで、わたしは本当にいろんな人に出逢って、いろんな人に救われてきた。
もうそこには感謝しかなくて、だからこの数年の間、じぶんにできることをさせていただいたつもり。
本当にありがとうございます。
人生ではじめての大恋愛と大失恋を経験させてもらったのも、いろいろあったけれど相手の方には心から感謝。
この数年間が、人生史上1番充実した時期だったのと、人生史上最高に幸せだったこと。
わたしは一生忘れない。
こんな事を云うのはなんだけれど、じぶんにとって、全てがその人の為だけに存在していたと云っても過言ではない相手に去られて、正直いまは生きる気力が湧かなくなってしまった。
これまでいろいろやってきたことも、いまではなんの意味も見出せなくなってしまったくらい、じぶんにはその人が全てだった。そんなことを、失ってから気づくあたり、じぶんの駄目さ加減が身に沁みてる。
初心にかえって。
じぶんがなんなのか?
じぶんは何をしたいのか?
セクシュアルマイノリティの前に、1人の人間として。
分岐点に立ち戻ってみることにした。
じぶんを殺すことにどんな意味があるかはわからない。
このまま干からびて、人知れず消えるだけかもしれない。
それでも、たったひとつ消えないことがある。
わたしは本当に心から、1人の人を愛したという気持ちだ。
この想いだけは、じぶんのなかで1番誇れる記憶になると思う。
最近巷で騒がれた、「同性愛は趣味みたいなもの」という発言に物申すなら、性別なんかで人への愛情を区別する程度の感情なら、確かに趣味といえるかも知れない。
愛とは、性別も人種も年齢も理由も超えた深いところに存在すると、わたしは思うから。
レインボーファミリー主催トークライブin札幌
6月16日にレインボーファミリーさん主催で、わたしの尊敬するひとり、鈴木茂義先生を招いたトークライブが札幌で開催された。
先生にお逢いするのは2度目になるが、ありがたいことに覚えていてくださっていて、少しお話することができた。
いつか可能であるなら、深い話をゆるいながらしてみたい。
今回の内容を詳しくお伝え出来ないのが残念だけれど、キーワードから始まるトークが生ならではで、あっという間に時間が過ぎてしまった。
後半、参加者からの出題に答えるコーナーで、最後にわたしの書いたお題を光栄にも取り上げていただき、LGBTsの各々方が互いをどう受け止めているか、といった内容に答えていただいた。
レズビアンの方がトランスの方やゲイの方をどう受け止めているか。
ゲイの方がトランスの方やレズビアンの方をどう受け止めているかなどなど。
これはあくまで個人的なお話で、必ずしも全員がそう考えているわけではないだろうことをふまえ、個人的にはなるほどな、という反応をいただいた。
とても有意義な時間を過ごさせてもらった。
普段はLGBTsについて難しく考えたりはしない質だけれど、こういう勉強会的な場に参加するたび、(セクシュアルマイノリティという)世間の狭さが浮き彫りになる感覚を覚える。
その狭い世間で、図々しくもセクシュアルマイノリティの1人として主催させてもらってはいるが、わたし自身はいたって平凡な人間で、講演会や勉強会で登壇できるような武勇伝があるわけではない。
しかしながら、セクシュアルマイノリティ界隈にいる以上、その系統の問題に触れることがないわけでもない。
セクシュアルマイノリティの中では特に、限りなくマジョリティ色の濃いグラデーションの上にいる。
わたしは本来、セクマイイベントを主催する上で必要なスキルというのが存在すると考えているのだが、それをハッキリとした形では実現できていない。
主催とはいっても、単に似たタイプの人達を集めて、じぶんが安心していられる居場所を自力で作りだしたに過ぎないからだ。
それでも
それに賛同して集まってくれる方々がいる限り、わたしはそれを実現し続けることができる。
これは、わたしが個人的な想いを発端にしてはじめた企画で、様々な想いを持った人間同士がひとつのジェンダーの元に集い互いを尊重し合あえる、ミニマムな和解の場と思っている。
他人同士が完全に理解し合うのは不可能だろうけれど、理解できなくとも共存は可能だとは思う。
はじめからそこに存在するものを、激しいまでに拒絶してしまう根本には固定観念という思い込みがある。
たくさんの人と出逢うことで、じぶんの中の頑なな思い込みを壊していきたい。
それがいつか、じぶんをも解放してくれる。そう信じている。
最後に、セクシュアルマイノリティ界隈にいるだけで、不勉強なじぶんの耳にも様々な情報が少なからず入ってくる。
実際は膨大な量の情報が存在し、耳を傾ければもっと知識も得られ、じぶんにできることは増えるのかも知れない。
しかし
じぶんは少々LGBTsとしての枠にハマりすぎているきらいを感じている。
じぶんはセクシュアルマイノリティという人間ではなく、LGBTsという存在でもない。
じぶんはまことという1人の人間で、男女二元論に当てはまらない考えを持ち、じぶんを飾り立てる事に重きを置かず、外側よりも内側に魅力を求めるタイプで、本当は内向的で大人しく喋るのが苦手な、外では気を遣いすぎて疲労してしまう地味な奴なのだ。
そんな人間がなぜ、あえて素顔を晒し全国的にカミングアウトをし、一部から批判を浴びながらもセクシュアルマイノリティの為のイベントを主催するのか?
正直に告白すれば、そのほとんどが1人の人に由来している。
その人とはわたしにとって、恐らく最初で最後に現れた転換期ではなかろうかと思う。
それまでにも様々な出逢いはあったけれど、これほどまでに強烈な出逢いは半世紀に2度あるかないか、そんな出来事だった。
良くも悪くも、わたしという人間をどこに導こうとしているのか?
真相はまだまだ時が経たなければわからない。
まずは、お手並み拝見といったところだ。
そんな、相当ゆるい、としか形容しようのない多様性をテーマとして活動する「にじいろ🌈がーでん」が主催するイベントDive‼︎は、2018年6月現在奇数月を目安に開催中。
セクシュアリティ(両性愛、異性愛、同性愛、無性愛他)に関係なく、己をXジェンダーと自称できる考えをお持ちの方の参加をお待ちしている。
7月のDive‼︎は「そうだ、おたる潮まつりに行こう」
詳細はTwitterにてご確認ください。
↓Xジェンダーイベントアカウント↓
@Dive_sapporo